ロシア海軍 戦艦シソイ・ヴェリキィ




  戦艦シソイ・ヴェリキィは、ナヴァリンの次に、バルト海艦隊用小型戦艦して計画された艦で、ペトロパヴロフスク級戦艦とほぼ同時期の計画の艦でした。また、ロシア戦艦で初めて、センター・ピボット式の主砲塔を備えた艦でもありました。
  本稿では、開発経緯、艦歴などを簡単に追ってみようと思います。


◎艦名の由来
・シソイ・ヴェリキイ Sisoy Velikiy Сисой Великий
  「大シソイ」、5世紀の聖人。エジプトの砂漠の中の石窟で瞑想し、その徳は多くの人にたたえられました。


◎性能
建造:ニュー・アドミラルティ工廠(サンクト・ペテルブルグ)
設計排水量:8,880t
実際の排水量:10,400t
垂線間長:101.19m 水線長:105.16m 全長:107.23m
全幅:20.73m 計画吃水:6.71m 実際の吃水:7.77m
主缶:円缶 片面焚4基 両面焚4基
主機/軸数:三気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
機関出力:設計8,500hp 公試8,635hp
速力 計画:16ノット 実際:15.65ノット
燃料搭載量 常備:石炭550t 満載:石炭1,000t
航続距離 4,440浬/10ノット
兵装:30.5cm40口径連装砲塔2基
    15.2cm45口径単装砲6門
    47mm43口径単装砲12門
    37mm23口径単装砲10門
    37mm5銃身ガトリング砲2門
    陸戦用63.5mm19口径砲2門
    38.1cm水上魚雷発射管6門
    機雷50発装備可能
防御:装甲材質 ニッケル鋼
    主舷側装甲/機関区画 406mm(下部に向け203mmにテーパー)
    主舷側装甲/主砲弾火薬庫脇 305mm(下部に向け152mmにテーパー)
    シタデル前の横隔壁 254mm
    シタデル後の横隔壁 229mm
    上部舷側装甲(前後主砲塔間、主砲バーベットに接続)127mm
    副砲ケースメイト 八角形全面127mm
    主砲塔/正面・側面 254mm
    主砲塔/後面 305mm
    主砲塔/天蓋 51mm
    主砲塔バーベット/上部舷側装甲より上 254mm
    主砲塔基部/上部舷側装甲の施された甲板 上部舷側装甲の外 254mm 内側127mm
    防御甲板/シタデル内 平坦部 64mm(主舷側装甲上端に接続)
    防御甲板/シタデル前後 艦首尾部 平坦部 76mm
    47mm砲、37mm砲砲 非装甲
    司令塔/側面 229mm、天蓋/不明、交通筒/非装甲
乗員:士官27名 兵555名


◎建造経緯
  新しいバルト海艦隊用の小型戦艦の検討は、戦艦ガングートの進水が近くなり、サンクト・ペテルブルグのニュー・アドミラルティ工廠の造船台がもうすぐ空くという時期に始まりました。
  しかし、新しい戦艦をどういう形状にするか、具体的な案はすぐにはまとまりませんでした。バルト海艦隊用の戦艦ナヴァリンや黒海艦隊用のトリ・スヴァーティテリャのような、低乾舷のバーベット艦ではない、新しい設計が求められました。
  艦のサイズも未確定でした。戦艦ガングートのような小型の船型を推す上級士官もいれば、戦艦ナヴァリンのような大型の艦型を支持する上級士官もいました。
  ロシア海軍自体が大型装甲艦の建造経験が少ないことも検討の混乱に繋がりました。1890年は、黒海艦隊の戦艦インペラトリッツァ・エカテリーナ2世、戦艦チェスマ、戦艦シノープが完成したばかりで、バルト海艦隊用の戦艦インペラトール・アレクサンドル2世と戦艦インペラトール・ニコライ1世が完成に近付き、戦艦ガングートが船台で建造中で、戦艦ナヴァリンが起工されたばかりでした。
  1890年9月、海軍科学技術委員会は、検討の叩き台となるデザインスケッチを作成し、複数の上級士官の意見を募ることにしました。このデザインスケッチは、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世級を原型にしており、次の性能を持っていました。

設計排水量:8,500t
垂線間長:101.1075m 全幅:21.35m 計画吃水:6.405m
主機/軸数:三気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
機関出力:設計7,320hp
速力 計画:16ノット
航続距離 3,047浬/10ノット
兵装:30.5cm35口径砲3門(前部バーベットに2門、後部バーベットに1門装備)
    15.2cm35口径単装砲4門
    12cm速射砲4門
装甲:主舷側装甲/機関区画 406mm
    主舷側装甲/前部主砲弾火薬庫脇 356mm
    主舷側装甲/後部主砲弾火薬庫脇 305mm
    副砲ケースメイト 127mm

  副砲が2種類積まれる理由は、まだ使用可能な15.2cm速射砲が開発されていないからでした。
  海軍科学技術委員会は、上級士官達が艦の仕様を決定してくれると期待しましたが、結果は議論が紛糾しただけでした。上級士官達はそれぞれの信条に従って、異なったアイデアを主張しました。
  ペシュチュロフ提督(A. A. Peshchurov)とマカロフ提督(S. O. Makarov)は、後部のバーベットの30.5cm砲を2門に増やすべきだと主張しました。ピルキン提督(P. P. Pilkin)は、後部のバーベット装備の30.5cm砲を廃止して、ケースメイト装備の22.8cm砲2門にするべきだと主張しました。
  マカロフ提督とピルキン提督は、装甲を犠牲にしてでも速力を高めるべきであると主張し、ヴェルホフスキー提督(V. P. Verkhovskii)もこれに賛成しました。一方、クレーメル提督(A. K. Kremer)は、ケースメイト装甲をより厚くするべきだと主張しました。
  極端な意見になると、コプィトフ提督(N. V. Kopytov)のように、戦艦不要論まで現れました。彼は戦艦より巡洋艦を建造するべきだと主張しました。彼は衝角戦術を支持し、排水量8,000t〜9,000tの巡洋艦で衝角戦を行えば、排水量14,000tクラスの敵艦でさえ撃沈可能で、沈められない敵艦はないと主張しました。

  これらの議論の結論が出ない内に、1890年11月、ロシア海軍省長官チハチェフ中将(Vice Admiral N. M. Chikhachev)は、一等戦艦と二等戦艦の検討を命令しました
  この一等戦艦は、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世を大型化から設計が開始され、後に30.5cm砲4門を装備したペトロパヴロフスク級戦艦となりました。
  二等戦艦が、検討されていた小型戦艦に当たるものとされ、排水量8,400tとされました。この一等戦艦と二等戦艦の関係は戦艦インペラトール・アレクサンドル2世級と戦艦ガングートの関係に、大型戦艦と小型戦艦の組み合わせという形で似ていました。そのため、小型戦艦は公式文書にも「ガングート2号」とも書かれました。

  この命令に基付き、海軍科学技術委員会は設計作業に戻りました。前のデザインスケッチに改良が加えられました。主砲は前部後部共に30.5cm35口径砲2門装備となり、副砲は15.2cm35口径単装砲6門に統一されました。排水量は8,880tに増やされました。
  防御は、戦艦ナヴァリンに基付いて、その装甲厚を減厚する形になりました。特に違ったのは砲塔基部の防御で、ナヴァリンが単一のリダウトで前後の砲塔の基部を防御したのに対し、新戦艦では前後の砲塔の基部に装甲バーベットを設けて防御する形になっていました。これにより、ナヴァリンのリダウト部分に相当する、上部舷側装甲を305mmから127mmに減厚することが可能にされました。これによる重量節約は、艦首艦尾を1甲板高め、乾舷を増すことに繋がりました。
  このデザインスケッチは1891年2月10日にチハチェフ中将によって認可されました。より詳細な仕様と設計は、1891年3月18日に完成しました。

  問題は建造開始時から山積していました。イジョルスキー重工は既にオーバーワーク状態で、艦の鋼材を別から調達しなくてはなりませんでした。新しい発注先は何とか決まりましたが、艦尾材、方向舵のフレーム、シャフトブラケットの発注漏れが発生しました。

  そして、例によって設計完了後の設計変更が相次ぎました。
  1891年9月9日(建造開始後9日)チハチェフ中将が艦前方に2門の水中魚雷発射管の追加を命じました。これは25.65tの重量増加に繋がるので、チハチェフ中将は説得されて命令を撤回しました。
  最も重要な変化は、1893年に発生しました。それまで計画されていた、戦艦ナヴァリン類似のバーベット装備の主砲を、フランス式のセンター・ピボット式の砲塔に変更したのです。この変更は、砲支筒の直径を抑え、重量を抑えながら、防御の改善をもたらしました。
  また、主砲は30.5cm35口径砲から30.5cm40口径砲に変更されました。副砲は15.2cm35口径単装砲から15.2cm45口径単装砲に変更されました。この新しい副砲は速射砲でした。これらの変更は艦の攻撃力を改善しましたが、52.4tの重量増大をもたらしました。代償重量として、司令塔の装甲厚を228mmから152mmに減らす提案がニュー・アドミラリティ工廠の建造責任者から出されましたが、海軍科学技術委員会はこれを拒否しました。
  このような規模の変更を行えば、建造の遅れは必至でした。しかも、新しい設計と、新しい仕様の用意が必要となりましたが、これらは海軍科学技術委員会の遅い認可作業により遅々として進みませんでした。
  艦が戦艦シソイ・ヴェリキィと命名され、進水した時、船体は排水量4,009tで、まだ機械、装甲、兵装、上部構造物の、殆どの器材を欠いていました。しかも、この時点で、既に艦の重量超過は明らかでした。

  艤装のためにクロンシュタットに移動した後も、装備品の調達の遅れや細かな仕様変更が相次ぎました。
  1896年9月4日、戦艦シソイ・ヴェリキィの完成する予定日の3週間前、クロンシュタット港の最高司令官が92項目の未完成部分を列挙しました。それには、2つの主砲塔の1つ、電話システム、排水システムが含まれていました。しかも、操舵装置に欠陥があることが分かり、まだあまり建造の進んでいないペトロパヴロフスク級戦艦から操舵装置を取り外し、取り付ける作業が行われました。
  戦艦シソイ・ヴェリキィの完成工事は、クレタ島で発生したオスマン・トルコの支配に対するギリシャ人の反乱に対するロシアの介入に参加させる為、非常に急がされました。10月5日、戦艦シソイ・ヴェリキィは公試を行い、概ね問題のない成果を上げましたが、この時点でも艦の装備の多数を欠いた状態でした。例えば、舷窓を密閉する144個の銅製のリングもまだ装備されていませんでした。それでも、艦は何とか無理矢理竣工しました。

  地中海への最初の航行の際、多数の不具合が艦に発生しました。操舵室の換気の不良は特にひどく、艦長はイギリスのポートランドに停泊した際、ベンチレーターのパイプに設置する送風機を現地で購入して設置しました。それ以外にも、船体は水漏れし、電装系は問題を起こし、多くの問題が発生しました。それらは、その場で修理されていきました。

  1897年3月15日のクレタ島付近での後部主砲塔の爆発事故の後、シソイ・ヴェリキィはフランスのツーロンで修理を受けましたが、その際の調査で多くの不具合が発見されました。
  艦の横、甲板、砲門は水漏れが良く起こりました。水密ドアの密閉は不完全で、装甲ドアは形状が合わず閉まりませんでした。水密隔壁は強度不足でした。これらは、艦の完成を急いだこととは関係ない、建造技術の未熟による不良でした。
  最も驚くべき問題は、舷側装甲と舷側外板の間に0.5〜1.5インチ(1.27cm〜3.81cm)の隙間が空いていることでした。
  これらの欠陥は艦を訪問したフランス海軍士官に嘲笑われ、ロシア海軍士官は大いに困惑しました。

  これらの問題の調査が、海軍省の調査委員会の長、アバザ大佐( Captain 1st Rank A. M. Abaza)に命じられました。
  それに対し、艦政本部は、装甲帯及び外板の間の隙間は「現在の装甲取り付け様式では避けられない状況」であるという疑問のある回答をしました。

  結局、これらの諸問題を修正する作業は行われませんでした。

ロシア戦艦シソイ・ヴェリキィ 1905年
ロシア戦艦シソイ・ヴェリキィ 1905年
戦艦ナヴァリンより高い前部、後部の乾舷に注目。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  戦艦シソイ・ヴェリキィは特に建造中の重量増加が大きく、完成時、設計重量を17パーセントもオーバーしていました。設計排水量8,880tに対し、実際の排水量10,400tとなり、吃水は計画吃水6.71mに対し、実際の吃水7.77mとなりました。
  これは、主舷側装甲の完全な水没を招き、防御に重大な支障を生じさせました。ただ、元々乾舷が高かったので、航洋性にはあまり問題は出なかった模様です。

・武装
  シソイ・ヴェリキィに装備されたオブコフ式30.5cm40口径連装砲塔は、フランス式のセンター・ピボット式の砲塔でした。今までのロシア戦艦の、バーベット装備の砲の上に装甲フードを付けただけの外見のみの砲塔とは異なり、砲室の諸装備全てと下部の揚弾機を旋回部に含む、ロシア戦艦初の「本当の意味での」砲塔でした。
  主砲塔は小さな直径の装甲支筒に支えられ、最下部でセンター・ピボットに固定されていました。また、旋回をスムーズにするために、砲塔の下にローラーパスも装備されていました。
  この砲塔形式は、ド級艦時代を迎えるまで、ロシア戦艦の標準となりました。
  主砲の最高仰角は15度でした。
  主砲はどの旋回角度でも装填可能で、装填角度は固定角度でした。
  ただ、全旋回角度で装填出来る利点にもかかわらず、発射速度は他の列強の戦艦より緩慢でした。設計では発射速度は90秒/発でしたが、実際には2.5分〜3分/発でした。
  海軍科学技術委員会は砲塔の軽量化を命令し、これは砲架の強度の劣化を招きました。砲熕公試の際に砲の発砲に問題が発生しました。主砲の装薬は375ポンド(170.25kg)でしたが、発砲による主砲の後座により、砲塔の支持架に負荷が掛かり、砲塔が故障する事実が判明したのです。結局メタリチェスキー重工で砲架と砲の支持構造の補強工事が行われました。結局、この工事により砲塔の重量は増し、当初の砲塔の軽量化の命令は無意味になりました。
  砲弾は砲毎に80発でした。
  ただ、遅い発射速度を速くしたいという願望や訓練が、1897年3月27日の砲塔爆発事故に関係した可能性がありえます。

  副砲は、15.2cm45口径単装砲で、速射砲でした。片舷3門、両舷計6門、船体のケースメイトに装備されました。
  発射速度は1分間に5発程度で、15.2cm35口径単装砲より大幅に増していました。
  副砲の弾薬は、砲毎に200発でした。

  47mm43口径単装砲は、12門が装備されました。副砲ケースメイト上の甲板に砲口を設けて片舷2門両舷計4門装備されました。この砲門は無防御でした。その上の上部構造物の甲板上に片舷3門両舷計6門装備されました。残り2門は艦尾スターンウォーク前に砲口を設けて、片舷1門両舷計2門装備されました。

  37mm23口径単装砲は、10門が前檣のファイティングトップに装備されました。
  その他、37mm5銃身ガトリング砲2門が、操舵室前両舷に装備されました。

  魚雷兵装は38.1cm水上魚雷発射管6門でした。艦首に1門、片舷2門両舷計4門、艦尾1門装備されていました。
  艦首発射管、艦尾発射管は固定ですが、舷側発射管は旋回可能でした。
  魚雷は各発射管に2発ずつ装備されていました。

  その他、50発の機雷が搭載可能でした。

ロシア戦艦 シソイ・ヴェリキィ断面図
ロシア戦艦 シソイ・ヴェリキィ断面図。
左が全部主砲塔断面。主砲塔支筒の装甲配置が分かる。高さの低い主舷側装甲に注目。
右は全部煙突付近断面。主舷側装甲上の上部舷側装甲、副砲ケースメイト装甲に注目。
「Эскадренный Броненосец Сисой Великий」 出版社 Лекоより引用。


・防御
  装甲防御様式は、リダウトを無くして上部舷側装甲と主砲塔支筒装甲の組み合わせに変えただけで、後は戦艦ナヴァリンに準じていました。装甲材質はニッケル鋼でした。
  装甲様式は主舷側装甲が舷側部分を取り巻き、主砲塔の前後に装甲横隔壁を持ち、シタデルを構成していました。
  その上に上部舷側装甲があり、舷側から折れ曲がり、前後の主砲塔支筒基部に接続されていました。
  船体内の副砲ケースメイトは八角形の装甲が施されました。
  装甲横隔壁より前後の艦首尾部は、水平甲板で防御されていました。

  主舷側装甲は長さ227フィート(69.295m)、高さ7フィート2インチ(2.1844m)でしたが、建造中の排水量の増大により、吃水が約1m以上増し、設計排水量では3フィート2インチ(0.9652m)水線上に出ている筈でしたが、完全に水没してしまい、事実上装甲厚127mmの上部舷側装甲のみが舷側防御となっていました。この点、シソイ・ヴェリキィの方が防御構造としては進歩しているのですが、実際には旧式ながら舷側装甲上に305mmのリダウトを持つナヴァリンの方が舷側防御力が有った可能性があります。
  機関区画の主舷側装甲は、装甲厚406mmで、下部に向け203mmにテーパーしていました。
  主砲弾火薬庫脇の主舷側装甲は、装甲厚305mmで、下部に向け152mmにテーパーしていました。
  シタデル前後の横隔壁の装甲厚は、前部254mm、後部229mmでした。
  上部舷側を保護し、主砲塔基部に接続されている上部舷側装甲は、長さ152フィート(46.36m)で、高さ7フィート6インチ(2.2875m)で、装甲厚は、全面127mmでした。
  その上の副砲ケースメイト部分の装甲厚は、全面127mmでした。ケースメイト間には隔壁が設置されましたが、厚さは不明です。

  主砲塔の装甲厚は、側面と側面が254mm、後面が305mm、天蓋が51mmでした。後面の装甲厚が厚いのは、重量のバランスを取るためと思われます。
  主砲塔支筒の装甲は、上部舷側装甲より上の支筒は全周254mm、上部舷側装甲の甲板の支筒は、上部舷側装甲の外は254mm、上部舷側装甲の内側は127mmでした。
  司令塔の装甲厚は、側面229mm、天蓋は不明、交通筒は非装甲でした。
  防御甲板は、シタデル内の平坦部の装甲厚が64mmで、主舷側装甲上端に接続されていました。
  艦首尾部の防御甲板の装甲厚は、平坦部76mmでした。
  47mm砲砲口、ミリタリーマストのファイティングトップの37mm砲は、非装甲でした。

・機関
  缶室は、前後に分ける横隔壁と、艦中央部に縦隔壁があり、縦横4室に分割されていました。1缶室に縦に円缶片面焚1基、両面焚1基、計2基が設置されていました。前部の缶室では片面焚缶が前に、後部の缶室では後ろに設置されていました。缶は全缶室計8基設置されていました。
  機関室の中央縦隔壁は、浸水時の傾斜の危険を増した可能性があります。
  推進軸の構成は、2軸推進でした。
  主機械は三気筒直立三段膨張機械で、バルチック造船所で生産されました。2つの機械室は缶室の後ろにあり、中央に縦隔壁を持ちました。
  計画された機関出力は8,500hpで、公試での出力8,635hpでした。速力は予備公試では15.5ノット、10月17日の公試では5時間全力平均15.65ノットで、計画の16ノットに達さなかったものの、良好な成績を収めたとされました。
  この機関の好調は、戦艦シソイ・ヴェリキィの建造の数少ない明るい話題でした

・水中防御
  戦艦シソイ・ヴェリキィには94のフレームがあり、二重底がフレーム20から76まで設けられました。排水システムは、メインの排水管が艦を縦通しており、そこからサブの排水管が派生するシステムとなっていました。
  排水ポンプは、750t/時の上記動力の遠心力ポンプ4基と、125t/時の蒸気ポンプが搭載されました。


◎改装
  戦艦シソイ・ヴェリキィは竣工後、地中海戦隊に配属され、その後極東に派遣され、1902年まで改装の機会を得ませんでした。1902年にバルト海に戻ってから改装工事に入り、幸いなことに日露戦争開戦前に改装を終えていました。

・1902年〜1904年
  旧式のリュージョリ・ミャキーシェフ測距装置(物体の高さを測り、測距する機材)に代わり、基線長4.5フィート(137.25cm)のバー・アンド・ストラウド測距儀と望遠照準器が装備されました。
  同時に、無線機が装備され、トップマストが延長されました。

  缶は、16基のベルヴィール缶に改装されました。ただ、缶の取り付け作業に多少粗末な点がありました。
  新しい缶には欠陥がありました。従来のままの機械、操舵装置にも欠陥が見られました。

  何門かの47mm43口径単装砲が追加されましたが、どこに追加されたかは不明です。ただ、15.2cm砲ケースメイト上の砲口装備の47mm43口径単装砲は交換された模様です。
  新しい探照燈も設置されましたが、位置は不明です。
  また、洋上で使用する新型のスペンサー・ミラー式石炭補給装置が戦艦レトヴィザンから移設されました。

  1904年3月24日、艦長オーゼロフ大佐(Captain 1st Rank M. V. Ozerov)よりの強い要請により、海軍科学技術委員会は艦の復原性を増すよう何らかの処置を執る必要があると判断しましたが、第2太平洋艦隊の出発を遅らせるという理由で、結局何の処置もされませんでした。


◎戦歴
  1891年8月6日建造開始、1892年5月19日起工、1894年6月1日進水。1896年6月には完成し、諸公試を実施しました。艤装はクレタ島のオスマン・トルコに対するギリシャ人の反乱に介入するために加速され、1896年8月30日竣工しました。
  竣工後直ちに地中海に送られ、1896年12月26日アルジェに到着しました。
  そのまま地中海戦隊に所属していましたが、1897年3月15日、スダ湾で完成以来2回目の砲術演習を行っていた際、後部砲塔の左砲が爆発事故を起こし、砲塔天蓋を吹き飛ばし、16名が死亡、15名が負傷、後に6名が死亡しました。
  調査の結果、事故の原因は、後部砲塔の左砲の水圧式の尾栓に故障が生じたので、尾栓を手動で閉じられなければならなかったためと推測されました。尾栓は手動で挿入されましたが、正しくロックされず、他の砲の発砲の衝撃で尾栓が開き、砲塔内に装薬の爆風が吹き込んだと考えられました。

   1897年12月24日までフランスのツーロンで修理が行われ、その後、命令を受けて戦艦ナヴァリンと共に極東に向かい、1898年3月28日に旅順に到着しました。
  1900年6月、義和団事変に際して、大沽に派遣され、陸戦隊を北京と上海に派遣しました。

  その後、バルト海に帰還することとなり、1901年12月25日、ドミートリイ・ドンスコイ、ヴラジーミル・モノマーフ、アドミラル・ナヒーモフ、アドミラル・コルニロフ、及びナヴァリンと共に旅順を出発し、1902年5月初頭にリバウに到着しました。

  1902年より改装が開始され、日露戦争の勃発までに修理と改装を終了していました。
  1904年10月15日、第二太平洋艦隊に所属、リバウを出港しました。
  1905年5月27日、日本海海戦において、日本海軍の砲撃により、昼戦において数発の深刻な被弾を受けました。
  その後の夜戦において、駆逐艦の攻撃を受け、艦尾に被雷し、行動力を喪失しました。
  翌5月28日、韓崎の北東30浬の地点で特務艦信濃丸、臺南丸、八幡丸、駆逐艦吹雪に沈没寸前の状況で発見されました。降伏の手続きを経て、日本艦による曳航が試みられたものの、最早艦は沈没寸前であり、放棄が決定されました。乗組員は士官32名、准士官8名、下士卒582名、全員救助収容されました。戦艦シソイ・ヴェリキィは午前11時5分に転覆して沈没しました。


◎総論
  戦艦シソイ・ヴェリキィは、バルト海で建造された小型装甲艦の系譜の最後に当たる艦でした。この後、太平洋艦隊の増強やドイツ海軍の拡大などの理由により、この類の小型戦艦は建造されなくなります。
  艦型はほぼ前ド級艦としての様式を備え、ロシア海軍初のフランス式センター・ピボット式主砲塔の採用、副砲の速射砲化、高い乾舷など、近代的な要素を持っていました。
  反面、建造中の仕様変更や工作力の未熟による排水量の大幅な増加により、主舷側装甲帯は水没し、防御力と復原力を大きく損ねました。また、政治的理由の為に急がれた艤装により、様々な装備を欠いて竣工しました。これは、建造工事の粗雑さと相まって、後々まで問題を残しました。
  水密性にも大きな問題がありました。もっとも、ロシア海軍において水密隔壁の試験規則が厳重に実施されるようになるのは、1897年6月12日、バルト海艦隊の小型戦艦ガングートの座礁沈没以降で、原因が船体の水密隔壁の不完全とされてからでした。この試験規則が採用された最初の艦はペトロパヴロフスク級戦艦で、シソイ・ヴェリキィはその前に既に完成していました。

  戦艦とはその国の最高の工業力を結集した工業製品ですから、その国の基礎工業力がその出来を大きく左右します。シソイ・ヴェリキィ建造時のロシアには、まだイギリスやフランスなどの一流海軍国に伍する戦艦を製造する工業力が無かったのかもしれません。

  それでも、戦艦を設計・国産出来る国家は数少なく、ロシアがその一つであったのは確かです。戦艦シソイ・ヴェリキィは、遣外活動に良く活動し、良くロシアのために役目を果たしたと言えるでしょう。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。


◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「Эскадренный Броненосец Сисой Великий」 出版社 Леко
・「千九百四五年露日海戦史」 露国海軍軍令部編纂 海軍軍令部翻訳
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

日本海海戦に参加したロシヤ艦名一覧

  また、資料の内、「Эскадренный Броненосец Сисой Великий」 出版社 Лекоは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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